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SNSで増える「世界一周」という言葉への違和感
最近、「世界一周してきました」という投稿をSNSでよく見かける。また、僕自身も旅をして2年近く経つと、日本人の旅行者から「世界一周してるんですか?」と聞かれることが増えたように思う。
そのたびに僕は思う。そもそも“世界一周”とは何なのだろうか。地球をぐるっと回ることなのか、全大陸を踏破することなのか、日本が承認している195カ国すべてを訪れることなのか――人によって定義は様々だろう。
きっと、「これをしたら世界一周」といった明確な線引きはない。結局のところ、それぞれが自分なりの世界一周を定義しているのだと思う。
ちなみに僕は、いまだに自信を持って「世界一周しています」と言えたことがない。このブログのタイトルは「無職バックパッカーの適当世界一周旅ろぐ」だが、現実世界では「ただ適当にぷらぷら旅してるだけです(笑)」と誤魔化している。
僕にとって“世界一周”という言葉は、特別な輝きを放つ言葉だ。だからこそ、軽々しくは使えない。
旅を始めてから、隣り合う国でも文化や価値観が驚くほど違うことを知ってしまうと、たかだか20カ国ほど行っただけで「世界一周しています!」なんて言うのは、どうにも気恥ずかしく感じてしまうのだ。

“世界一周”という言葉の価値が下がってしまった時代
昔、“世界一周”という言葉は、人生をかけた一大冒険のような響きがあった。僕は平成初期に生まれた人間だが、当時はスマホも翻訳アプリもない時代。地図と勘を頼りに旅をする、そんなロマンに憧れがあった。
けれど今では、“世界一周”という言葉がずいぶん軽く聞こえるようになってしまった気がする。SNSの普及によって、見栄えのいい言葉として使われることが増えたのだろう。「3ヶ月で世界一周しています」と言う人に出会ったこともあるし、SNSでは「40日で世界一周」という投稿を見かけることも珍しくない。
格安航空券やルート整理アプリ、Google翻訳、ホテル予約サイトの登場で、確かに旅のハードルは劇的に下がった。誰でも簡単に多くの国を訪れることができるようになった。その一方で、まるでスタンプラリーのようにパスポートのスタンプを集めては「制覇感」に浸る人も増えた気がする。

2年間旅をして思う、本当の“世界を歩く”ということ
僕は思う。旅の醍醐味とは、一つ一つの土地で人と関わり、暮らしを覗き、文化を肌で感じながら歩くことではないだろうか。移動距離よりも、出会いや時間の積み重ねこそが「世界を知る」ということなのだと思う。
そんなことを、ふと考える日がある。
途上国を旅していると、「なんのためにそんなこと(旅)をしているんだ?」と聞かれることがある。日本のような国では「いいねー、羨ましい!」と声をかけられることが多いが、発展途上の国の人たちにとっては、見知らぬ国を一人でふらふら旅している人間など、理解しがたい存在なのだろう。
彼らにとって“当たり前”とは、家族を養い、生活を支えること。自分のためだけに多額のお金を使い、目的のないように見える旅を続ける僕の姿は、きっと不可解なものなのだ。
そんな彼らと出会うたびに、僕はやりきれない気持ちになる。母ちゃんに車を買ってあげられるくらいの金額を使ってまで、何を得ているのだろう――。物理的に得られるものがほとんどない行為を続ける自分の意味を、ふと考え込むことがある。

「旅」は速さでも距離でもなく、深さで決まる
1ヶ月で10カ国を巡るより、1カ国で1ヶ月暮らす方が、学びは圧倒的に多い。10カ国を駆け抜けて得られるものは、写真やSNSのネタくらいのものだ。
今の時代にこそ、“観光”ではなく“旅”が必要なのではないだろうか。僕が旅を良いと思う理由のひとつは、やはり「人とのつながり」だと思う。
スマホの普及によって、日常の人間関係はどこか希薄になった。でも、旅の中では何とも素晴らしい出会いがある。見知らぬ土地で人と笑い合い、助け合い、名前も知らない誰かと酒を飲む――そんな瞬間にこそ、旅の本当の価値があるように思う。

“世界一周”という言葉を、もう一度考えてみたい
改めて思う。“世界一周”の定義は人それぞれだ。でも、だからこそ軽々しく使うのはもったいない。旅の本質は「何を見たか」ではなく、「どう感じたか」にあるはずだ。
リアルを生きよう。これからも、自分なりのペースで、自分なりの旅を続けていきたいと思う。